『信仰』と『信心』の違い

人々が 一番輝く笑顔を見せるのは
どんな 時だろう

いったい どんなことを経験すると
人は 良き笑い顔を 見せるのだろう

とんでもない もめ事や
とんでもない 事件に巻き込まれ
今日も 明日も 生きた心地がしないほど
厳しい状況に 置かれると
本当の喜びは ただ当たり前に過ごすことだったと
きっと 気付くのであろう

人は人 自分は自分
そう 言い聞かせても
人の心知らずして この世を生きることはできぬ

未来は 明るい
そういくら 叫んでも
この 心の奥底に
でも 言い知れぬ不安がよぎる

これは 真の本心か
決して 未来は明るく生きられるかわからない

心の中の 一喜一憂
ここに 決して揺らがぬ 想い
これを 信心の道というなり

2025/5/26

【追記】
15年位前のこと、私が頂いたメッセージの意味を読み解くことができず、書き記したノートをもとに、あるお寺をお訪ねしたことがありました。そこは、本堂が火災で燃え落ちてしまい、有志で再建されたプレハブの本堂に御無事でだった御本尊様をお祀りされている小さな天台宗のお寺でした。ご住職様にお会いしてお話をお聞きしたのは一度きりでしたが、このご住職様から大切なことを2つ教わりました。1つは、私がこのメッセージを頂く時、その言葉は耳から聞こえておらず、心の中に直接入っていること。これは、密教修行によって得られる力だそうで、耳から聞こえてくるのは低級霊であり、これは良くないことであるということ。2つ目は、『信仰』と『信心』の違い。『信仰』とはその文字のとおり、『信じて仰ぎ見る』という意味。畏敬の念を持つことは大切ですが、これは御神仏と距離が離れているということでもある。『信心』とは、御神仏を無条件に『心から信じきる』ということ。この2つが、とても大切なことで、メッセージを頂けるのは、この2つの要素を持っているからだと教えて下さいました。たくさんお経を覚えて読めるからとか、作法や修法ができることを、御神仏が必ずしも望まれているとは限らないということです。
御神仏は、そのお姿を目で見ることはできませんが、本当に親のように近い存在で、私たちのそばに寄り添い、学びの課題を与えたりしながら、共に喜怒哀楽を感じながら、私たちの成長を見守り続けて下さいます。『だから、私は大丈夫。私にとって一番良い道を導いて下さっている。』と、そう信じきれば、小さなトラブルや悲しいことがあっても、乗り越えながら、その幸せを感じて生きられることが嬉しいと思います。

今、私に与えて下さっているミッションの達成に、いくつかの課題があって、ここまでにこれが達成できるのだろうか?と思う日々ですが、不思議なことに必要な時に、これを助けて下さる人が現れて、程よくスムーズに物事が流れていきます。これが、御神仏様のお計らい。きっと明日も、もっと素晴らしい1日を天界が用意して下さっていると信じて、楽しんで過ごそうと思います。

天界の皆さま 
私たちの魂を導きをくださり 
ありがとうございます
私たちの心を支えてくださり 
ありがとうございます
私たちの今をお守りくださり 
ありがとうございます

宇宙の天命が 全うされますように
地球の天命が 全うされますように
日本の天命が 全うされますように
神々の天命が 全うされますように
人々の天命が 全うされますように

今日もお読みいただき ありがとうございます

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