80年目の原爆の日に思うこと
私の両親は熊本出身だったけど、全く頼る人もいない広島市に戦後の復興需要で移住して商売を始めたので、私は広島市内で生まれ育ちました。広島サミットで有名になったあのエリアが、通っていた小学校の近くでした。
放射能に汚染され、草木も生えないと言われた広島でしたが、市内を流れる数本の川土手に戦後並んでいたトタン屋根のバラック小屋は、昭和40年代には高層の公営アパートに集約され、被爆しても崩れなかった古い建物の一部を残し、街のほとんどが新しい建物に建て替わって、かなりの勢いで復興をしていたと思います。広島市内では、小学校に上がると、平和の授業が毎年あり、必ず一度は授業で原爆資料館を訪ねるようになっていました。原爆をテーマとした『はだしのゲン』というマンガも、教室や図書館、学童保育の書棚に必ず並んでいて、当たり前のように何度も読んでいました。同級生には被爆3世の子もいるし、後遺症と言われた白血病で亡くなる方も少なくなかったように思います。進学した高校の演劇部は、毎年、戦争を題材にしたオリジナル作品を上演し全国的にかなり有名でした。日教組所属の先生、左翼や右翼の街宣車がいつも走り回り、被爆の被害を伝える現役の『語り部』も多くおられ、今に比べるとまだまだ戦後を感じる街でもありました。
毎年開かれる『平和祈念式典』の日は、黙とうのためのサイレンが街中に鳴り響き、行政に関わる人達、学校を代表して参列する人達、多くの遺族の人々が平和公園を訪れ、夕方から市内を流れる川には、精霊流しの小舟が流されます。
あの日、あれだけ多くの人々が、悲惨な亡くなり方をして、広島の土地には無念さのエネルギーがたくさん残っていると思われる方がいるかも知れません。東北大震災の跡地を、歩きながら御供養して回っておられる僧侶の姿が思い浮かぶところだと思います。
主人の転勤で、福岡に移り住むまでの30余年、原爆ドーム横を通勤で歩いたり、ドーム側の病院に入院したり、どっぷりと被爆地を感じながら過ごしてきましたが、この地に霊的な重さを感じることはありませんでした。
この被爆地よりも、どんよりとして重たい空気感のある土地は、日本中あちらこちらにあって、考えてみれば、ほんの数千年の歴史を辿ってみても、今、生きている人の数よりも、亡くなった人の数の方がはるかに多いんです。成仏できていない霊達も、目には見えないだけで、同じ空間にたくさん存在していて、時間がとまっているかのように、留まっている。彼等は、この世に未練や執着を残してしまった魂たち。また、死を受け入れられない魂たち。
随分前に、何故、この被爆地に霊的重さを感じないのかを師匠に聞いたことがあります。
それは
あまりに一瞬のことで、何もわからず、死に向き合う恐怖を感じる間もないまま、多くの魂が旅立ったからだと。
そこには、身近な親族と共に旅立った人たちも多かったと思います。
これが、じわじわと長い苦しみの中で、息を引き取った人達が多くいたら、その苦しみや怒りの念が、この地にもっと落ちていたかも知れません。
亡くなった方々が、この日、この場所に居合わせたことは、避けられない『魂の契約』だったのでしょう。その尊い生命をもって、私たちに『核兵器』というものの恐ろしさをこんなにも教えてくれました。私たちの学んできた歴史が、全て正しいとは限らないけれども、歴史は繰り返し、先人たちは学びと気付きを残してくれました。街そのものには『戦争の爪痕』としての遺物がたくさん残っていますが、不思議なくらいに、この広島の地の霊的エネルギーはカラッとしてるように思います。
私たちが、これから迎えようとしている時代。これまでに観測したこともない地震や磁気の変化データや、動物たちの異常行動の情報がWEBを通じて流れてきています。これらの情報が100%正しいと言い切れませんが、多くの人が昭和の時代と大きく違う『地球の動き』を感じ始めていると思います。災害が起こらないという確率は、どうみても少なさそうです。
私たち一人ひとりの『魂の契約』が、どのような役割を持ち、どのように働くのか、予測することはできませんが、旅立ちの時に後悔のないよう、日々を感謝して大切に丁寧に生きていきたいと思います。
天界の皆さま
私たちの魂を導きをくださり
ありがとうございます
私たちの心を支えてくださり
ありがとうございます
私たちの今をお守りくださり
ありがとうございます
宇宙の天命が 全うされますように
地球の天命が 全うされますように
日本の天命が 全うされますように
神々の天命が 全うされますように
人々の天命が 全うされますように
今日もお読みいただき ありがとうございます