ここは そなたの来るところではない

『ここはもう、そなたの来るところではない。ここには、来るな。』

ある宗教法人の本堂に足を踏み入れた瞬間、お不動様からそう言われました。

小学生の頃、父が知人から紹介を受けて、ある宗教団体の仏教系の教場に通い始めました。
当たり前のように、母も私も一緒に連れられて、数週間に一度通いました。

ある日、熊本から当時私たちが住んでいた広島に叔母(父の妹)が遊びにきました。
父は良かれと思い、この教場に叔母を連れていきました。先祖供養の大切さを伝えるために。

ところが、叔母はここで思わぬことを告げられました。
当時、建てたばかりの自宅の宅地に、実は古い井戸があって埋めて整地しているので、その場所をもとに戻して水神様をお祀りするようにと。
叔母は帰宅して、そのことを叔父(ご主人)に伝えたそうですが、『そんな迷信は、絶対信じない!』とカンカンに怒って聞く耳を持ちませんでした。
父は、これをとても気にしていましたが、聞き入れてもらえず、なすすべがありませんでした。

しばらくして、電話が鳴り響きました。
その叔母が、珍しい花を採りに数人で山に出かけたところで、崖から滑落し、瀕死の状態で救急車で搬送されたと。
父も母も、広島から車で駆け付け、危篤状態の叔母に付き添いました。首の骨が折れて、神経が数本しかつながっていない状態であり、いつ亡くなってもおかしくない状態であると告げられたそうです。父は熊本から帰宅し、すぐに教場の指導者に指導を仰ぎ、叔母の回復祈願のため、その日から、夜中の瀧行に通い始めました。自宅から片道30kmの山道を毎晩2時に出発し眠気と戦いながら、数十日通い続けました。叔母の容態は、一進一退を繰り返し、何度か危篤と言われながらも、2月近く経った頃、命の危険から奇跡的に回復をすることができました。父はとても喜びました。しかしながら、叔母は首から下の全ての機能を失いました。

叔母は、とても頭のいい人で、心配りのできる優しい人でした。当時の叔母は40歳代だったと思います。
気が利いて、私にもいつも優しく接してくれる人でしたが、この怪我をしてから、自分で水を飲むことも、鼻をかむこともできません。水差しの角度、痰や鼻水を拭くハンカチのずれ、ちょっとしたことを、何ひとつ自分自身で直すことができない、大変なストレスを抱えることになりました。頭でわかっていて、これを伝えることしかできないけれど、相手によってはこれを嫌がる人もいる。ちょっとした不満が残っても、伝えずらい・・・

リハビリを頑張れば、いつか動けるようになるかも・・・と父は思っていましたが、叔母の状態は変わらず、長期入院をしているうちに、叔父(ご主人)が糖尿病の発作で、自宅で眠ったまま突然亡くなりました。

叔母はふさぎ込んで『私は死にたいと思うけど、自ら死ぬことすらできない。なぜ、あの時死なせてもらえなかったんだろうか。』と話すことがありました。きっと、これが叔母の本音だったのだと思います。
しばらくして、すでに嫁いでいた娘3人は、誰も住むことがなくなったあの家を処分し、叔母は障がい者施設で余生を過ごすようになりました。そこで、詩を口ずさみ、書きとってもらうことで、作品を作るという楽しみを見つけ、少しずつ穏やかになっていきました。
そして滑落の事故から30数年間、叔母はボケもなく、意識はしっかりありながら、全く自らの力で動くことができない地獄のような時間を、ただただ周りを見つめて過ごし旅立っていきました。本当に、大変な人生を終える日を迎えられて良かったと思いました。

私は、この叔母と父を通じて、多くのことを学びました。

(1)家・土地におられる神様を怒らせてしまうことの怖さ
(2)御神仏の存在を知りながら、約束を実行しなかったことの結果
(3)本人が依頼しない病気平癒祈願(父の自己満足)の結果
(4)わかっていて、何もできない、逃げることのできない苦しさ・辛さ
(5)最後まで精神的な異常をきたすことなく、最後まで生き抜いた叔母の精神力の強さ

これは、叔母が今世の学びとして、プログラムしてきたことなのかどうか、わかりません。
ただ、広島に遊びにきた叔母は、望んで父が通う教場に行きたかったのだろうかと、ずっと疑問に思っています。その時に、井戸と水神様のことを聞いていなければ、別の方法でのお知らせがあったかも。別のタイムラインがあったかもしれません。これを直接知ったからには、そのことに対処しなければならなかった。でも叔母は、何も実行することができませんでした。結果、このような大変な事故に遭いました。この父の『良かれ』と思って教場に連れていった行動は、父の自己承認欲求であったと思うのです。

そして、父が命を助けて欲しいと御祈願したこと。叔母が、あの時に死んでいたら楽だったのに・・・という言葉を聞くたび、これも、父の『良かれ』と思ってという自己満足であって、本人が望まないことだったのではないか。叔母の優しさゆえに、感謝の言葉を返したかもしれませんが、『ありがた迷惑』であったかもしれません。その分、苦しみの時間が長かったのではないかと、思い続けています。

私自身も、父と同じように、知人が突然の病で、生命を落としそうになったとき、師匠やお寺にもお願いし、病気平癒のために、毎日祈りました。これも数ヶ月間生死を彷徨い、幸い生命はとりとめたものの、障がいが残り仕事の復帰が困難となりました。陰ながら、病気平癒を祈願したことに、悔いはありませんでしたが、知人やご家族から助けてほしいと依頼があったわけでもなく、本人もご家族もこれを知らなかったので、自分は『奇跡的に復活した生きるパワースポットだ』と調子に乗り、挙句の果てには、私たちとも縁を切りました。これはこの知人の神あたり(神様を怒らせたこと)から始まったことだったので、師匠に告げられたとおり、奇跡の回復から3年後、病気で突然亡くなったと風の便りに聞きました。結局、この病気平癒の祈願は、私の自己満足だったと思います。

それ以降、ご本人が望まない(その時期を迎えてない)御祈願をすることは、その方のためにならないのでしないことにしています。
御神仏は、親が子を想うのと同じで、成長を促すために、課題は与えるけれど、答えは与えません。親だからこその愛情です。その御心に従っています。

父は、叔母の回復を祈願した教場へその後2年もしないうち、足を運ばなくなりました。指導者への思いがいろいろとあったようです。一度だけ、みんなで本山にお参りに行こうというお話があって、広島から佐賀にある本山まで、自動車に乗り合って夜中の高速道路を走りました。私が中学3年の頃でした。寒い2月の明け方4時、本山の山の瀧場で白い瀧着を着て瀧行を経験しました。とても寒くて震えましたが、冷たい水から上がった瞬間に、身体がかぁーっと熱くなる経験をしたのは初めてのことでした。

それから数十年を経て、福岡の地に住むようになって、あの夜中に走って辿り着いた本山はどこにあったんだろう?と、昔の記憶を辿りながら、どうにか辿りついたその本山。

冒頭のお言葉は、この本山で本堂のお不動様が、私にかけてくれた言葉でした。
そしてこれは、お叱りの言葉ではないんです。

『今、ここに足を運ぶのは、誰かに頼り、すがろうとしてる者ばかりだ。情けない。
 そして、我らを祀る者たちも、これを利用してる者たちだ。
 だから、そなたの学ぶべきところは、ここではない。』

そういう、お言葉でした。

叔母も、父も、見送って、あらためて振り返ると、それぞれに大きな学びと教訓を残してくれたと思います。
そして、これらの学びが、私のライトワーカーとしての土台です。
大きな学びに感謝です。ありがとうございます。

地球の天命が全うされますように。
日本の天命が全うされますように。
神々様の天命が全うされますように。
皆さまの天命が全うされますように。

今日もお読みいただき、ありがとうございます。