2017/11/2 夜 仏前(聖観音菩薩様)
法力を使わぬ生き方選びて
ここまで 歩みきたが
何のため 法力使わずきたか
わかりたるや?
神の力 仏の力 数々の力 ありたれど
神に従ひて この力に預かり行きて
真(まこと)の意で
この御力の 救ひに謝して生く者 あまりおらず
この力のみにて 力にすがりたる者 やたら多し。
されど まことに 前向かひて
一歩一歩を歩み行かんとする者ありて
これに授けやりたるは 力ではなく
真(まこと)に授くる 愛の言葉である。
これ人たる者が 己の力を発揮するには
言霊による授けが 一番 力となりたるゆえに。
だからこそ そなたが一番に
これに 力を与えられ
神に 与えらるる喜びに 勝るものなしと
仕えきたはずであろう。
真(まこと)に 心ある者にとりて
神や仏の 与える技たるは
時に 毒になりて 過ち犯す元ともなる。
我れ 神にあらず されど人神なりと
狂ひたる元になりける。
この浅ましき姿に 至らせぬため
そなたが 心に宿りし神は
あえて 力を使わせぬ道を選びきた。
そなたに 真(まこと)必要なことあらば、
神は 預かり知らぬことにおいて
全ての力 使ひて
必要たること 成しおられる。
ひみこが 力を持ちたる 必要なし。
ただ 真(まこと)に 心清く、
すべて委ねたれば
神が必要たること 成さしめる。
そなたに 必要たる学びは、
これに 限ることなく
さらに 続きゆくことも ありたれば、
亡き人々の魂救いも この神に託されし
役割たることもありて、
仏とともに 致しおる所ある。
されど 亡くなりし者の魂自身が
成すべき学びもありて
神仏の技にて
解決すべきことでは ないこともある。
これも また愛ゆえのこと。
己れで気付きて 前に進み行かんと
することが忘れ去られし魂 にあらば
これを思い起こさんと させるところあり。
これにそなたの学びが 重なりしところもある。
諦めることなく 今からでも
間に合う学びなのだと 悟らせやらん。
魂の学びを させやらん。