障がいをもつことについて
先日の高野山参拝。振り返ってみると、以前『高野山に参れ』という御言葉を頂いていたのですが、すっかり忘れていたこの言葉を、このブログにアクセスして下さる方々のおかげでみつけました。
この『高野山に参れ』は息子も一緒に高野山に連れて来いという御言葉です。うーん、本人はどう思うのだろう・・・次男に投げかけてみましたが、特に何も反応はかえってきませんでした。
息子は二人おります。いわゆる発達障害の傾向があると言われて育った長男と、障がい手帳を取得した次男がおります。長男は、今は東京で就職し独り暮らしを楽しんでおり、次男は、就労移行支援の事業所で職業訓練を受けております。
今でこそ、発達障害という言葉が世の中に知れ渡り、まだ充分ではありませんが、放課後デイサービスなどの公共事業がはじまり、社会的な受け入れも広がりました。けれども、我が子たちが保育園や小学校に通う頃は、まだ発達障害に関する情報が、校長先生方にも降りてきていなくて、理解どころか偏見と不満のまなざしで学校の先生方の対応をうけ、居場所のない辛い思いをしていたことを今も覚えています。
生まれつきに障がいをもつ人は、輪廻転生の生まれ変わりで最後の修行におりてきた魂であると言われます。
先日NHKのテレビ番組で『自閉症の君が教えてくれたこと』をご覧になられたでしょうか?自閉症でありながらパソコンや文字盤を使うことで意思の疎通が出来る東田直樹さんの姿をこの番組を見たときに、「あーやっぱりそうだった」と改めて強く感じました。[embedyt] https://www.youtube.com/watch?v=k339lPSgT4g[/embedyt]
どんな風貌であっても、しぐさであっても、深く物事を考え、洞察しているけれども、表現をする手段が一般的でないと他者に勝手に評価されているだけなのが、『障がいをもつ人』です。けれども、その魂はとても清らかさで、この不自由な人生を自ら選びこの世に降りてくる非常に勇気のある存在であると思うのです。
最後の修行だからこそ、親を選んで降りてくるとも言います。親として出来の悪い私は、「あなたが選んできたんでしょ」とついつい言い訳してしまいますが、美輪明宏さんが幼い頃の体験で人の見方が変わったと言われるように、私自身にとっても人の見方を大きく変化させた存在が私の息子たちです。子どもの頃の彼らは、大人の心の器の大きさを試しているのかのようでした。
大人になってからは、社会経済の仕組みの中で、福祉支援を受けるだけの存在にするのか、あるいは納税者になる人材として労働力として活かすことができるか、労働力不足の日本社会において、経営者の能力や社会の仕組みの在り方に問題を提起しています。彼らの存在はとても大きい。
小憎たらしいこともありますが、心の中ではいつもぎゅっと抱きしめているかわいい息子たちです。
これから、まだまだ困難が続くでしょうが、その人生の中で学びを得ると決めてきた魂にエールを送りながら見守っています。
はてさて、高野山に彼らは行くと言う日が来るのかなぁ。そんな日が来てくれるのを楽しみに待っています。