信仰と信心

里方の先祖について調べていた数年前。
父が若い頃、先祖の中に赤い衣を着た高僧がいたと聞いたことがあるというのがとても気になっていました。当時頂いた『御言葉』と何となく重なることもあり、ふとした空き時間に比較的近くて行けそうな天台宗のお寺をふらりと訪ねたことがあります。

初めてそのお寺を訪ねたとき、広い敷地に小さなプレハブの建物と停まっている軽自動車が1台。
ここはお寺なんだろうかと、辺りを見回すと、おひとりの方がご神体のような岩に向かって、手印を組んで祈禱をされているところでした。

『あの手印、見たことがある!』

このお方は、このお寺の住職さんでした。数年前火災により本堂が焼失したそうで、今は仮設のようなプレハブの本堂になっていました。この日は、住職さんに御来客があるとのこと。何となく、訪ねただけだったので、とりあえずこちらはいつ訪ねてもいいのかとお尋ねすると、事前に連絡がないと普段はおられないとのことでしたので、あらためて出直すことにしました。

それから数週間後、どうしても、そのお寺と頂いた『御言葉』のことが気になって、お約束をしてお尋ねすることに。

そのときに、これまで書き溜めた『御言葉』をそちらの住職さんに初めて見ていただきました。
こういった文書を読まれると、一般的にはちょっと危ない人のように思われる方も多いと思うのですが、

住職『これは、耳から音で聞こえてくるの?』

私 『いいえ、胸の中に自分の意識と違う意識の言葉が入ってくるんです。』

住職『それだったら、大丈夫。それならいいよ。』

そういって、私の頂いた『御言葉』の理解に困っていたひとつひとつを紐解いていって下さいました。それは、吉野の修験道に関わる内容のことでした。さらに、ぜひ里方の故郷の地にある天台宗のお寺を訪ねてみると何かわかるからと。

今になってみれば、懐かしいことですが、それから里方についての先祖を辿りながら、ついには、比叡山を訪ねることができ、私自身の過去世に修行していたお寺に辿り着くことができました。

そのお寺には、それ以降お訪ねすることはありませんでしたが、とても印象に残る言葉を住職さんは私に残してくださいました。

あなたがこうして『御言葉』を頂くのは、あなたの心が『信仰』ではなく『信心』の心を持っているからだよ。
『信仰』とは、その字が表す通り、「信じて仰ぎ見ること」だから仏様と自分の間に緊張もあり距離がある。だけど、あなたの場合は、その先をゆく『信心』なんだよ。仏様のことを心から信じきるからその仏様の心を感じ、共有することができる。これは素晴らしいことなんだよと。

有り難い、嬉しい御言葉でした。

私は今、ときどき仏様方との距離を感じることもあります。それは、やはり心のどこかで、仰ぎ見るといった畏敬の念が強く、緊張感をもったときです。

けれど、仏様のお心はとても広くて大きくて、どんな失敗をしたとしても、そのお心で受けとめてくださるその優しさと偉大さに感謝を向けるとき、仏様方がまるで家族の様に身近に感じるとき、とてもふんわりとした気に包まれ幸せで満たされた気持ちになります。

仏様や神様に向けて、『信仰』の心で向き合うのか『信心』の心で向き合うのか、それは案外自分自身の心の扉に自分がカギをかけているだけかもしれません。

私自身、これから高野山真言宗で得度を受けさせていただくので、いつまでも比叡山大好きではいけないと思っていました。

けれど、宗派が違うとかに関係なく、比叡山の仏様も大好きな私のままで良いのだと、心のカギを開けたとき、とても心が穏やかになりました。宗派を越えて『信心』することが仏様が最も望んで下さることだと思います。