仏像の閉眼供養をいたしました

【2024年12月24日に頂いたお言葉】

これから 必要なことは 姿形にとらわれぬこと

御仏の形に こだわりすぎて
神の形に とらわれすぎて
神の本質を 失ってはならぬ

そなたが 神と申すものが
まことの神で あるものか
これが何故 そなたに知らせをしているか
その目的を ようよう 見極めよ

仏の心 神の心に 偽りなし
いつも 共にいることに 変わりなし

社(やしろ)求むは 神の器(うつわ)
神の御心 宿す御魂
己れの心が 神の社(やしろ)とならんことを望む

されば 己れがなすべきことは さにあらず

仏の姿 語り 迷わすものを 排除せよ
仏の姿で 差配するもの 排除せよ

真(まこと)の心あれば、 この身ひとつで 充分であろう

仏の姿に 依存するでなく
真(まこと)の心に 至りたること 精進せよ

—————————————————————–

【2024年12月25日に頂いたお言葉】

神が 望む姿は
自分自身が この光を受け取り
神が 社(やしろ)とする者に なるということで
他のモノを 崇拝するにあたらず

さすれば 今いちど 考えればわかろうが
この(仏の)姿 愛でるにあたり
祈りの念を 送りたるか
己れの欲を 満たしたいと思いたるや
いかであろう
これに 天の望みたる姿 あろうか

ゆえに (仏像を)手放すことは 大切なり

(仏像を)神として 祈るのではなく
人の心癒す 置き物たれば良い

—————————————————————–

2024年12月25日、御縁のお寺で私どもがお祀りさせて頂いていた六尊の仏像の閉眼供養をして頂きました。
大日如来様、阿弥陀如来様、また、私の幼少期から父母がお祀りしていた恵比寿様、大黒天様などなど、ずっと我が家でご一緒してきた仏様方です。
それぞれの仏様のお姿やお顔が大好きで、愛着があるのでなかなか踏み切れなかったのですが、その個人的な執着を手放す時期が来ていました。
仏像や御神体には、その御魂が宿る(入られる)のですが、その御魂を抜いて頂くのが閉眼供養です。

なぜ、仏像を手放すようにと言われるのか。

それは、過去に尼僧として自分や身の回りの成功や達成のため、仏像を拝んでご神仏のお力を頂くという小我の祈りが慣習的となっていたので、これからこれを大我の祈りに変えていく転換期にあるからです。

神社仏閣に足を運ぶ方は多いかと思いますが、そこにどんな目的がおありでしょうか?私たちは、ご神仏と向き合って最初に何を思いますか?
「感謝をお伝えするため」といっても、そこには「わざわざ足を運ぶ私を見て下さい」という自分を認めてほしいという思いが隠れていないでしょうか?誰のため・・・どこかに自分のためが、含まれています。
仏像を前にすると、なぜか無意識にも自分や身辺のことを意識してしまうことを捨てさせようとなさっているのだと思います。

なぜなら、天界の神々さまは、これから愛と調和の新しい未来社会への転換をしようとしておられます。その未来社会の創造に必要な天界のお手伝いをされる方々には、様々なメッセージやご指示が降りてくるでしょう。
けれども、個人の夢や目的が、天界の神々さまと異なるベクトルとなり、調和を乱すものとなるならば、天界はこれを排除しようとなさるでしょう。

仏像や御神体に御魂が入られるように、その御魂は時として人を社(やしろ)として入られることもあります。
神々さまとともに大我の視点で働けるようにということで、これからその社(やしろ)となるべく自分の心磨きをしなさいということです。
閉眼供養をしたからといっても、仏様の御霊がいなくなったというより、むしろ仏像の前にいなくても、いつでも一緒にいらっしゃる心強さはあります。

それでも・・・大好きな仏像のお顔の微笑みが、私たちの心を癒す作品としての存在であれば、まだ我が家に仏像を置いていていいと最後にお言葉を頂きましたので、一部の仏様を残させて頂きました。もうしばらく、亡き父と一緒に選んだ観音像を守っていこうと思います。   合掌

地球の天命が全うされますように。
日本の天命が全うされますように。
皆さまの天命が全うされますように。