『祈る』と『拝む』の違い
神社や寺院、またはお仏壇に手を合わせて、あなたは祈りますか?拝みますか?
先日「祈る」と「拝む」ことの違いのお話を聞きました。
- 祈る・・・大我(自分だけではなく、世界や全体のことを願うこと)
- 拝む・・・小我(自分の願うことが実現するようにお願いすること)
なるほど、だから私はある時から「拝む」ことができなくなったんだとわかりました。
例えば、仏様の前やお仏壇の前で、お経を読むことは「拝む」と言います。仏様のお名前やご真言でお声掛けをして、お経を上げる一定の手順があるわけですが、そこには何かの願いや目的があるのです。
「足るを知る」という観点でみれば、決してゆとりがある生活をしているわけではないけれど、今日、事故やケガも病気もなく無事に過ごせて、衣食住が足り、心穏やかに過ごすことができたことに感謝を告げたいと思うとき、「拝む」という作業はどこか何かがまだ足りないと不満を言っているように思えてしまったのです。
ほんの少し僧侶として学ばせて頂いたので、朝夕のお勤めの次第通りに進めていましたが、在家行者としての修行の目的とゴールはどこにあるのかと思ったとき、私の場合は自己満足しかないように思えてきました。
ご神仏の働かれる力は、いつも私の思考や願いのはるか先を行き、私が用意したシナリオの遂行のために、必要な課題の提示や支援をくださるので、私は全て用意された最高のレールに乗っていると思っています。現実の生活は、たとえ困難であっても、それが自分の用意したシナリオならすべて解決の糸口が用意されていて、クリアされる答えは必ずあるのですべてOKです。あとはそこにたどり着けた感謝しかありません。
戦国時代、多くの武将は、戦勝を祈願するため僧侶に加持祈禱をさせていたようですが、その結果は僧侶の法力合戦で、誰かの願いの成就しても、誰かの願いが叶いませんでした。これも、天界やひとりひとりのシナリオがあれば、これが達成されることが一番良いと思うと、日常「拝む」行為に私情が加わると、時に、そのシナリオを遠回りさせたり、邪魔をしたりするかもしれないということが、私には感覚として何か違うと思えたのだと思います。
もちろん、大切なお客様が大病をされたときは、仏様にその病気平癒を願い、毎日拝んだことがありましたが、弱気になっていたご本人にとって、勇気を頂ける温かい言葉と、その闘病からどんなことを学んでほしいかのメッセージ(言霊の手紙)があり、これをお伝えすると奇跡的に回復をされました。
自己の損得抜きに、愛をもって純粋に誰かを想うとき、ご神仏が助けて下さって、目に見えない存在の力という気付きを与えると思うのです。
ゆえに、世界や人びとの天命(シナリオ達成)を願うことに、私には僧侶という肩書はいらないと思いましたし、普段はお経を読むよりも、ご挨拶と感謝を伝え、そして、地球と日本と人々の天命が全うされるよう、お祈りする毎日に変わりました。
さて、あなたは神社や寺院に参拝されるとき、どんなことを想い、どんなことをご神仏に伝えておられるでしょうか?
『祈り』と『拝む』の違い、参考にして頂けたらと思います。